自然食や民間療法の効用を唱える人は数多い。その中にあって、「心が受け入れないと、自然の力は生かされない」という東城百合子の言葉は、はじめて聞く人にはなかなか真意がつかめないだろう。時には辛口に、しかし根底に限りない優しさをたたえている東城のメッセージがかたちづくられるまでには、数々の苦境を乗り越えてきた生き様があった。

沖縄で健康運動を、ゼロから立ち上げる

現地教会の人たちの出迎えをうけ、沖縄での生活がはじまった。この地で、東城は意外な発見をする。沖縄には、野草も玄米も、黒砂糖もあり、無漂白の真っ黒な押し麦もあった。アメリカナイズされてしまったが、依然として伝統の食文化も残っており、薬草もごく当たり前に街で売られていたのだ。沖縄にはまだ自然の力が人々の生活の中に生きていることを知り、東城はうれしくなった。

予感どおり大豆ミルクの計画は、当事者が二の足を踏み、動かなかった。しかし、来た以上、独立独歩で、沖縄での活動を成り立たせなくてはならない。「まず行動だ!」とばかり、東城は地元の有力紙、沖縄タイムズの社屋に乗り込んだ。

新聞社の受付では商品の宣伝と勘違いされ、追い返されそうになるが、東城は「沖縄の人は大事なことを知らないで不健康になっている。本来の伝統食のよさを知らせたい」と粘りにねばって編集長にかけあい、「没にしてもらってもかまわないから」と、その場で原稿を書き始めた。いっきに書き上げた原稿は、「沖縄の食生活」と題した記事となり、2日間にわたり掲載され大きな反響を呼んだ。

行政にかけあい、自然食の給食献立を実現する

新聞記事を読んだ琉球政府の社会教育課主事が、東城のもとを訪れ、講演を依頼。次には、琉球ラジオから「健康の話をして欲しい」と請われ、東城の話は電波に乗って沖縄中に広まった。もうひとつの有力紙である琉球新報にも、五来長利の記事が60回連載される。機関誌の発行、料理教室、講演活動と、現在の「あなたと健康社」の健康運動の基本形ができあがっていった。沖縄の食文化が本来持っているよさ、お金のかからない身近な健康づくりをクローズアップしたことが共感を呼び、健康運動は沖縄全土の主婦、保健婦などの支持を集めていく。

夫と二人三脚の健康運動は勢いづいた。豊見城小学校の完全給食化の際には、東城が献立を考え、調理法を教えた。胚芽やふすまをまぜたパンは、子どもたちの健康づくりに効果をあげた。しかし、所属するキリスト教会から心外な指示が届いたのは、行政と連携して、ますます沖縄全土の食生活を改善できそうだと手ごたえを得ているまっ最中のことだった。

「教会の関係者が、政治と関わるのは異端である」

ここまで広がった健康運動を中止せよという指示だ。破竹の勢いだった沖縄での運動は、3年間で幕を閉じた。

苦労を重ねながら、雑誌と料理教室を軌道にのせる 

「私たちは裸一貫で出かけて行って、また裸で帰った」(「マイナスもプラスに生きる」あなたと健康社)。活動の基盤を沖縄の人々にゆずり、一家は東京に戻った。ゼロからのやり直しだが、沖縄での成功体験は、夫妻に成せばなるという自信と希望を与えていた。

戻った時には、三ヶ月も暮らせるかどうかという状態だったが、月刊「栄養と健康」の発行をはじめる。夫の五来が講演や記事執筆を中心に行い、東城は栄養教室を開いた。様々な人とのつながりのおかげで、やがて健康運動は軌道にのってゆく。教会からは離れたが、聖書に学ぶ師、手島郁郎の会に参加し、精神面で大きな支えを得ることができた。

資金繰りの見通しがつかないときにも、なぜかタイミングよく、切り抜けるだけの資金がその都度入ってくるというエピソードも、東城ならではの体験談だ。

「生活費はすぐ底をつく。普通ならどうしようかと思うのでしょうが、お金はなくても心豊かに安らぎがある。面白いことに、次々に縁がつながって何とかなる」(同書)

苦労しながらも夫婦で力を合わせ、希望に燃える日々にやりがいを感じていたところへ、突然、夫の長利が「別れる」と言い出したのは、雑誌の事業が順調に回り出したころのことだった。

突然の離婚。そして、再生への一歩

あとでわかったことだが、夫の五来は、たまたま入ったレストランで隣に座った女性と意気投合し、その縁で新しい家庭をつくるまで進展してしまったという。

「自然に生きることの大切さを知らされ、これこそが私の使命だと思ってやってきた健康運動でした。その根幹がガラガラと音をたてて崩れていきました」(「お天道さま、ありがとう。」サンマーク出版)

家族が崩れたまま同じ雑誌を続けるのは、読者を裏切ることになる。これまでの出版、料理教室などの活動基盤は別れた夫にゆずり、すべて白紙にして東城は、「あなたと健康」を創刊する。ペンネームの東城百合子は、このときにつけたものである。家を事務所として使い、借金をして3000部の雑誌を印刷。再生への一歩をなんとか踏み出した。

「人生の2つの大きな転機のひとつ」と東城が語る離婚の苦難の時期。何が東城を支えたのか。心の師と仰いでいたミラー博士、手島郁郎はすでに亡くなっている。心細く悩み迷う中、家のポストに『中心』という雑誌が投函された。発行者は、東城の生涯の師となる常岡一郎である。東城は、たまたま開いた『中心』の記事に感激し涙を流しながら、読み入った。

「根のごとく、枝葉が出る。根が大事。根を育てよ」

常岡一郎は、昭和10年に修養団体「中心会」を創設。参議院議員を12年間務め、戦災孤児や老人の世話をする社会福祉と健康、精神面の活動に邁進した人物だ。その思想は、自らの困難を克服した体験にもとづいており、「根のごとく、枝葉が出る。根が大事。根を育てるのだ」という言葉に表れている。事務所を使って、毎月1回、常岡一郎に講演をしてもらう。4人分の机を片づけると、30人入れるスペースができた。この会は、常岡が亡くなるまで続き、今日の定例会に受け継がれている。

奮闘すること4年。「あなたと健康」が軌道に乗るころ、今度は夫の会社が倒産した。すでに離婚して何の責任もない東城だが、他人に迷惑をかけ悪縁を残してはいけないと、倒産処理に奔走する。しかし、多忙な日々に追われるうちに、結核が再発してしまう。

入院などしていられる状況ではない。東城は、ある縁で知った「ビワ葉温灸療法」に効用を見出し、徹底的に研究する。仕事をこなしながら、毎朝一人でビワ葉温灸で身体を癒す。そして、一つまたひとつと懸案を片づけるうちに、肺の結核はすっかりきれいになくなってしまった。自然療法の効用もそうだが、心の整理をつけていったことが重要だった東城は語る。自分が出せるものを惜しみなく出しきって、元夫の倒産の始末をつけた。「心は宇宙とつながるエネルギー」という言葉は、この体験からきている。

利益追求の論理が、「怠け者」を大量につくる

高度経済成長と同時に公害や食品添加物が社会問題になる中、「あなたと健康」と料理教室は順調に支持者を増やしていった。料理教室でつねづね、化学調味料の悪影響について警鐘を鳴らす東城に、大手調味料メーカーが工場見学の誘いをしてきたのは、米国FDA(食品医薬品局)がグルタミン酸ソーダの脳神経毒性に関するデータを発表した頃のことだった。

担当者は工場を案内しながら、「ご覧のとおり、材料も糖蜜で安全性に問題はありません」と語るのだが、東城が見学を希望する<茶色い糖蜜を真っ白に精白する工程>は「企業秘密だから」と見せようとはしなかった。

工場見学の後は、10数名の重役たちとの座談会がセットされていた。

「忙しい現代では、手作りは難しいこと」、「われわれの製法は微生物をつかい、自然の材料が元」などと語る企業人との会話は和やかに進んだが、ある発言が、東城を憤然とさせる。

「化学調味料という言葉が悪い。私たちは女性を台所から解放した。この功績は大きいと自負しています」

これを聞いた東城は、思わず「何ですって?」といい立ち上がった。自然の味は、手作りでしかつくれない、台所は家庭の要(かなめ)なのだ。解放とは何を解放したのか。ただ怠け者を大量につくっただけのことではないか。改めて冷静に思いを語りつくした東城は、企業の利益追求の論理と、「自然の力で生きる」ことが相容れないことを改めて認識しながら、会社を後にした。

食べ物への感性と生命への感性はつながっている

長年、料理教室をやってきた東城だが、最近の若い受講者には、驚くことばかりだとい

う。「ししとうと、さやいんげんの違いがわからない」「インスタントの味噌汁しか知らず、だし汁の中で味噌を溶くことも知らない」など例をあげればきりがない。

「大学を出て頭の勉強はたくさんしていても、心が育っていない。『家のことは何をしなくていい、勉強だけしていればいい』と育てられる人間が増えている」。

食卓の変化の根本にあるのは、目先の利益しか見ることのできない我々の意識そのものだ。

昔のお母さんは、学歴はなくても教養があった。子どもをちゃんと抱きかかえて温かく育てる心があった。お母さん同士で助け合いもしていた、と東城は語る。

「現代は何でもお金でそろえることができる時代です。それだけ手抜きはできるでしょう。手抜きは心抜きです。食べ物に対する感性といのちに対する感性はつながっているのです。日本はつくづく女はいても母がいなくなった。私はそう実感してならないのです」(「お天道さま、ありがとう。」)

「もう一度、“お天道様”を取りもどしましょう」

たった一人での創刊から38年、月刊誌「あなたと健康」は全国の数多くの購読会員に支えられ毎月読者からの便りが絶えない。著書は累計90万部を超える「家庭でできる自然療法」をはじめ、20冊を越えるまでになった。今年で85歳になる現在も、東城は毎月の定例会を欠かさず、呼ばれればどこへでも、講演会に出かける。主催者の都合にもよるが、講演のほとんどは手弁当で無料というのが昔からの変わらない東城の考え方だ。

「全ては自分育ちのため」と支部や支局も一切つくらずにやってきた。自然がそうであるように、ワクをつくらず、出入り自由、その人の「どうしてもやりたい」という自主性にまかせて健康運動をしてきたからだ。

いま、東城にとって最も気にかかるのが、若者たちの教育だ。「便利、快適、簡単」を求める風潮の中で、「根のある生活」を訴えるのは困難なことだが、なんとしても「生きる根本」を伝えなくてはならない。最近も近隣の小学生が料理体験に来たが、感性の瑞々しさ、可能性に思わず涙が出たという。大人が道を迷っているだけなのだ。日本人が持っていた“お天道様が見ている”という言葉の意味に、若い世代が気づき、受け継がれる日が待たれている。

東城百合子 略歴

■出生
1925年10月26日 岩手県葛巻村に生まれる。手足に障害を負う
小学校時代 家事の手伝いなど母親の厳しい躾の元で育つ
女学校時代 聖書の教えに傾倒する
栄養学校時代 東京の佐伯栄養学校に学ぶ
■栄養士から健康運動家への歩み
20代 栄養士としてキリスト教系学校の給食をまかされる
24歳 重度の肺結核と診断されるが、自然療法と出会い、数年かけて治療する
29歳 五来利長と結婚。二児をもうける
39歳 東京に戻る。健康雑誌と料理教室をはじめる
48歳 「あなたと健康」を創刊する
2009年 「あなたと健康」35周年を迎える
2010年 85歳。あなたと健康社主幹として講演会、料理教室で後進の指導に当たる