NQインタビュー Vol.8
「あなたと健康」主宰 東城百合子

世代を超えて、心を揺さぶる
東城百合子の問いかけ

「心の根っこ」を見つめるということ

それは「あなたと健康」の定例講演会でのひとこまだった。演台まで進んだ東城百合子は、30代の一人の女性に声をかけた。 「あなた、昨日の話を、ここでもう一度してくれますか」。会場は、何が起きるのかと耳をそばだてている。「料理教室に参加した若い人で、感じるものがあったそうだから、ここで話してもらいたいと思います」 群馬県から上京し3日間の料理教室を受けたばかりという女性は語りだす。「ここに来て新鮮に思えることばかりだったが、昨日の夕食では思わず涙があふれてしまった。
それは、本当に家庭のことを思っていたのではなく、幼稚園の母親たちの間でマクロビオティックが流行していて、それに乗り遅れまいという見栄でやってきた自分に気づいてしまったから」。「材料をどこも捨てずに、全てを生かす料理。その味をかみしめていたら、心の『根っこ』のところを見ないで、逃げている自分に気づいたのです」 何の飾りもない、真情そのままの言葉に会場から拍手がわき起こった。若い世代の心をここまで揺さぶる料理教室を主宰する東城百合子とは、いったいどんな人物なのだろうか。

岩手の豊かな自然。
厳しくも温かい家庭で育つ

「一粒の米だって、お天道さまが照ってくれて育つのだよ」

ペンネーム東城百合子こと五来百合子は、大正14(1925)年、岩手県葛巻村に7人兄弟4人目の次女として生まれた。父、勝正一は電気技師だったが、請われて村長を務めたという。宮沢賢治もこよなく愛した岩手県の豊かな大自然は、東城の心のふるさとだ。 生後1年もしない頃に不慮の事故で股関節に障害を負ってしまう。以来、びっこを引くからだである。ハンディを背負った娘の将来を案じて、母親のきよは、百合子が強く生きていけるよう厳しく躾けた。食事の前は、必ず掃除か家事をするのが日課だ。
父は「足に障害があっても、心に障害があってはならぬ。必ず人のために生きる道を歩みなさい」と諭した。学校までの2kmの道のりを、激しい吹雪の日も通った。 食事作法も、「一粒のお米を残しても行儀が悪い。残さないできれいに食べよ。汁物も手に持って周りを汚さないように」と厳しかった。幼い百合子がある日、満腹になったので、残ったご飯を何気なく捨てると、それを見た母は、「一粒の米だって、お天道さまが照ってくれて雨が降って、お百姓さんが汗してやっと育つのだよ」と涙ながらに叱ったという。

栄養学を学びながら、
キリスト教伝道師にあこがれる

アルバイトをしながら、神学校に通う日々

東城の両親は「たとえ財産は残さずとも、子どもへの教育は石にかじりついてでも、やりとおす覚悟」だった。母は東京に出て、住み込みの家政婦の仕事で、家計を助けたこともあったという。教育熱心な両親のもと、女学校を卒業した東城は上京し、日本の栄養学の草分けである佐伯矩博士に師事する。そして栄養学校卒業後、日赤病院に栄養士として1年半ほど勤務するが、許婚(いいなずけ)だった従兄弟の戦死をきっかけに、20歳の東城は聖書に癒しを求め、キリスト教に傾倒する。
教会に通ううちに東城は、「栄養士よりも、人の魂を救う伝道師になりたい」と決心、父母の猛反対を押し切って、千葉にある神学校に入学してしまう。 アルバイトをして生活費、学費づくりに追われると週に数時間しか勉強時間がとれない。理想に燃えて飛び込んだものの、教理中心の教育内容には今ひとつ納得がいかない。心身ともに無理を重ね、疲労困憊の末に故郷に戻ったころには、高熱と咳が続くようになってしまった。医者に行きレントゲンを撮る。診断は、肺全部に回る重度の肺結核であった。当時は結核イコール死を意味していた。

どん底で身にしみ入った、
玄米スープの生命力

「頭を切り替えて、自然に帰りなさい」

父は土地を売り払い、輸入品で高価な抗生物質ストレプトマイシンを入手してくれた。効き目を信じて、1ヶ月に60本も打った。栄養をとらねばと、食欲もないのに生卵を1日4個も飲み込む。抗生物質で症状は緩和したが、胃腸や肝臓は弱り、血便、血尿、血痰は続く。副作用で耳鳴りがする。心臓は早鐘のように打つ。呼吸困難で横になるしかない。1年半を経過しても、改善の兆しはなかった。「このまま死んでしまうのか」。神に祈り「生きたい」と願ったのは、そんな絶望的な日々のことだった。 願いが通じたのか、兄の友人の医師、渡辺氏が事情を聞き、駆けつけた。
そして、「あなたは栄養学で何を得たのか。頭を切り替えて、自然に帰りなさい」と諭す。自分も腎臓結核を玄米菜食で癒した経験を持つ渡辺医師は、「まず玄米スープからはじめなさい」と指導し、野菜、海藻、ゴマ、野草を食べることが「生命力をつくる」と教えた。 すがる思いで玄米スープを母に作ってもらい、飲むこと2日。食欲が出てきた。3日目には、3食とれるようになった。どくだみ、げんのしょうこ、おおばこなどの薬草を飲むと熱が下がり咳も減っていく。1年も経つと身の回りのことや家事、料理も自分でできるようになった。

タンポポが黙って与えてくれた自然の力

「野草は肥料もやらないのに、たくましく育っている」

東城を見守る渡辺医師は「本当に困った時は、野草がいい。タンポポの根をきんぴらにして食べなさい。葉はつくだ煮がいい。“よもぎ”や“のびる”もいい」と教えた。 「野草は肥料もやらないのに、たくましく育っている。あのエネルギーをもらうのです。理屈じゃない、現実にやってみなければわからない。自然が教えるからやってみなさい」 いつもタンポポを摘む丘に登る。絨毯のように一面に咲いているタンポポを見ていると、幼い頃、母のいいつけで草むしりしたことを思い出す。タンポポなどの雑草は根が深く伸び、なかなか取りきれない。
毎日いいつけられ、いい加減にすると叱られる。タンポポが憎たらしくなり足で踏みつけたものだった。そこまで思い出し、東城は悟る。 「私は自分の立場ばかりで病気治しを気にしている。けれどタンポポは親切で、あるがままに生えて、私が死にかけた時、何も文句を言わないで、何の代価も要求しないで、その力を惜しげもなく、私にくれて命になってくれた」
「自然の大きく温かな懐に抱かれて心が暖かくなって、涙がポロポロ出だした。そして、ついにタンポポにしがみついて、ワーワー泣いてしまいました」 (「マイナスもプラスに生きる」あなたと健康社)

東京に戻り自然食を勉強する

栄養学の知識がバランスをもたらした

タンポポの姿から、自然の恵みを悟った東城は、肺の空洞がふさがるまで回復する。そして、本格的に自然食を学ぶしかないと決め、東京の有名な指導者のもとへ1ヶ月間の修業にいく。ひとくちの玄米を、どろどろになるまで200回噛むという厳格な食事、そして掃除、片付けなどのきつい作業が当初は身にこたえたが、休まずに続けているうちに、急に力が出て、らくらく仕事ができるようになる。ここで学んだことは計りしれず、人生の大きな糧となった。いっぽうで、栄養学を学んだ東城の目には、「陰」と「陽」の2分法で全てを理論に当てはめる考え方には、ついていけないものが感じられた。
玄米中心の食事で身体がどんどん軽やかになるが、ある日まったく力が出ない自分に気づく。肌もカサカサになり、調子が悪い。「陰陽の原理」からこの時期、「体が陰性だから、生野菜を食べないように」といわれて従っていた。だが、栄養学の観点からすると、ビタミンCが不足しているはずだ。そこで、試しに生野菜を食べるようにしてみた。すると、体の芯に力が戻り、肌つやもよくなるではないか。 「栄養学をやっておいたことで、教条的にならず、バランスをもって食養を見ることができた」と東城は振り返る。

生涯の師、ミラー博士との出会い

人生の転機となった大豆ミルク

4年余りの闘病を経て東城は、再び千葉の神学校に戻り、栄養士として仕事に復帰する。そして、学校の食品製造部門で大豆ミルクや製パン、缶詰の技術者を務める五来長利の熱心なプロポーズを受け結婚する。 この時期、米国から国際保健機構(WHO)理事で、国際栄養研究所の所長も務めたハリー・ホワイト・ミラー博士が来日する。博士は大豆ミルクの権威であり、神学校に製造法の指導に来たのだ。ミラー博士は、中国、東南アジアに8つの大病院を何もないところから作り上げるなど、驚異的な功績を残した人物だ。
その行動力と精神性に東城は深く感銘し、ミラー博士を生涯の師と仰ぐようになる。 「必要があれば天が動く。だが大切なのは情熱、行動だ」。お金は志と共についてくると熱を込めて語る博士に、2週間の滞在中ついて歩き、東城は大きな影響を受けた。ミラー博士はまた、「沖縄の食料事情が心配だ。栄養豊富な大豆ミルクで、たくさんの人を救いたい」と語っていた。夫の五来のもとへ、沖縄の会社社長から、「大豆ミルクをつくりたいので協力して欲しい」と要請があったのは、そんな縁からだった。

健康運動というミッション

未知の地、沖縄での活動を決心する

現地から招聘され、ミラー博士も後押ししてくれたが、当時、沖縄はまだ米国の統治下にあり、「東洋の孤児」と呼ばれていた。劣悪な生活環境や事業の見通しを心配して周囲は反対するが、沖縄の人々の健康づくりに役立ちたいと東城は、夫に賛成する。 それは病に倒れ、絶望したとき神に誓った「どこへでも行けといわれれば行きます。生かしてください」という思いが根底にあり、今回の沖縄行きは、その機会なのだという確信があったからだ。
すでに2人の子どもを育てている真っ最中である。しかし、東城は心配する周囲の声をよそに「沖縄の子だって育っているのに、家の子が育たないわけはない。何もないといっても野草も、玄米もあるだろうし、いざとなったらそれでやろうと」思っていた。 昭和35年9月。東城百合子36歳。夫と4歳、1歳8ヶ月の子どもと共に、沖縄行きの船に乗る。内心は背水の陣の覚悟である。 「キリスト教の伝道師になりたい」という20歳の思いは、はからずも大豆ミルク普及、健康運動というミッションに形を変えて現実になりつつあった。


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