NQインタビュー Vol.9
マクロビオティック料理研究家 中島デコ

漫画「ちびまるこ」的な昭和の風景の中で

「素のまんまで、おおらか」な母のもと、のびのびと育つ

自然素材にこだわるマクロビオティックを手がける中島デコだが、意外なことに生まれも育ちも東京だ。「オリンピックの頃までは、世田谷も原っぱや雑木林がたくさんあって、毎日外遊びばかりしていましたよ」。暗くなるまで子どもで群れなして遊び倒し、お腹をすかせて家に帰り夕食と、「ちびまるこ」を地で行く毎日。仕事一途な父親と、おおらかでいつも明るい母親のもと、4人姉妹の長女としてデコは育った。母親は「食べることが好きで、作るのも上手で手早い人」。「思い浮かべるといつもガハハと笑っているイメージしかない」。
高校生の時、雑誌のグラビア写真に出た。「その頃はけっこうきれいだったの(笑)。校則違反だと学校に母親と一緒に呼び出された。教頭先生は雑誌を開いてお母さんは知っているんですかと問い詰めたけれど、母親が『何でも判断はこの子に任せてあります。自分のことは自分で考えて、何でもやりますから安心しているんです』と答えたら、おとがめ無しに」。窮屈に枠にはめられることもなく、のびのびと育てられたとデコは振り返る。

16歳。玄米おはぎを食べて、衝撃をうける

ぬいぐるみショーの手伝いで、マクロビオティックに出会う

デコのマクロビオティックとの出会いは、16歳というから早い。「バレエを習ったことがあり、ダンスも好きだった。高校卒業後、演劇に興味を持って、江古田の学生劇団に入った」。ある日、ぬいぐるみショーの手伝いに行くと、ぬいぐるみ役の演劇青年が休憩時間に玄米おはぎを分けてくれた。 餡は「塩あんこ」だ。それまでおはぎといえば甘さが好きで食べていたのだが、その玄米おはぎは“もち米と小豆そのものの味”がする。「繊細だけどエネルギーを感じる。こんなにおいしいものがあるのかと、目からうろこ」とマクロビオティックに強烈な印象を受ける。
初めてのマクロの師匠はいった。「デコちゃん。玄米を食べると人生が変わるんだよ。“食を正せば思いが叶う”ってね」。高校生のデコには、「うわ、まるで宗教だ」としか思えない話だったが、玄米の力強さは理屈ぬきの体感だった。 ちょうどその頃、胸の奥に気にかかることがあった。デコは血液型がRhマイナスなのだが、生物の授業で「Rhマイナスの女性は子どもが産めない」(誤説)と教師が無造作に板書しながら言うのを聞き、ショックを受けていたのだ。子どもを産むためには、玄米菜食が自分には必要かもしれない。いつかきちんと実践しよう。そうデコは思った。

24歳。プロポーズをきっかけに
マクロビ宣言をする

「食を正せば思いは叶う」ことを出産で実感する

演劇青年は、「砂糖はいけない」「よく噛んで」など玄米食の基本を教えてくれた。家族もはじめは玄米につきあってくれたが、長続きはせず、しだいに反発もする。マクロビオティックではよく聞く話だが、デコと周囲の人々も例外ではなかった。社会人になると、バレエ教室の先生をしながら劇団を続けた。遊びたい盛りの20代前半のことだ。「パフェの食べ歩きもしたし、後ではお酒、たばこも覚え、拒食、過食も経験した」。
しかし、24歳で劇団の男性からプロポーズされたとき、「魚と肉料理はしないが、それでもよいか」と、デコはいきなりマクロビ宣言をする。そして自然食品店の老舗『グルッペ』で働きながら、マクロビを本格的に学び、結婚2年目に待望の妊娠をする。血液型からの心配はあったが、人工的なお産でなく「普通に、自然に産みたい」という一心で、理解のある助産婦を見つけ出し、無事に女の子を自然分娩で出産。順調にあこがれていた“子どもがたくさんいる家庭”をつくる。「今にしてみると、5人の子どもを産み、『単独・自力出産』に何度も成功できたのは『食を正して思いを叶えた』ということだったと思う」。

結婚生活の終止符を機に、米国へ出発する

クシインスティテュートで感得した、自由奔放なマクロ

3人目を産んで育児に無我夢中の最中、夫の心は若い女性に向かっていた。もつれる日々の末、結婚生活に終止符が打たれたとき「自分の人生で本当にやりたかったことは何だったのだろう」と自問自答した。浮かぶのは、何年も前から行きたかったクシインスティテュートのこと。米国でマクロビオティックのムーブメントを巻き起こした久司道夫氏の本拠地だ。数年前から秘書の女性と手紙のやりとりをしていたが、本当に行くとなると子育て真っ盛りの母親にはハードルが高かった。 「もう一度連絡してみよう」。デコは再び手紙を書いた。
秘書の名は西邨マユミ。後に歌手マドンナのプライベートシェフとなり広く知られる人物だ。返事はすぐに来た。「アシスタントの枠がちょうど空いたので、来たらいい」。3人の幼い子どもを連れて来たデコを、西邨は快く受け入れてくれた。クシでの半年間は、料理と食事を心から楽しむマクロビオティックとの出会いだった。マクロビ発祥の地、日本では伝承された作法が事細かに定められ、修業の色が濃厚で息苦しさもあった。 「アメリカの美術館では、絵画の前で何時間も座りこんで飽きるまで見ていても、誰もとがめないでしょう。クシも同じ雰囲気。これでいいんだと思った」

帰国。下北沢で料理教室
『ワンダーマミー』をはじめる

みんなでアイデアを出して、レシピが豊かになっていく

米国での半年間は、西邨マユミと互いの子どもたちの世話をしながら、「世界にどんなことができるか」、「子どもたちをどう育てていくか」などと語り合い、考えの土台を深める有意義な充電期間となった。そして帰国後、デコは下北沢で料理教室『ワンダーマミー』をはじめる。 「玄米を知らない人たちに、穀物と野菜だけできれいでおいしくて、すごく満足できることを伝えたかった。クシで学んだことを、できるところから役立たせたいと思っていた」。
自宅の台所でクラスを始めたが、最初は誰も教室に来なかった。母や友人たちに来てもらい、何とか続けているとしだいに来る人が増えていく。「子ども連れで、おっぱいをあげながら、家の中はぐちゃぐちゃだけど、気兼ねしないでわいわいと、みんなで料理するの。アイデアを出しあって、レシピができていく。自分もこの時期に学んだことは大きかった」。料理教室は評判を呼び、当初の月1回が週1回になり、千葉へ移住する直前には、週3回のコース制になるまでファンを増やし続けていった。

自主保育活動で、
対話と相互信頼の大切さを学ぶ

8年間の自主保育。「代々木公園に子どもを育ててもらった」

デコが熱心に取り組んだもうひとつの活動が、自主保育グループ『原宿おひさまの会』だ。育児アドバイスで人気を集めた小児科医の毛利子来(もうりたねき)氏も創設に関わったという自然育児の草分けである。代々木公園は会の活動拠点だった。 「8年間も代々木公園に通い続けたから、どこにキノコが生えて、山菜が取れるのはどこかまですっかり頭に入っている。もう、“ここに住んでもいい”というくらい代々木公園が大好きで、子どもも自分も原っぱに育ててもらった」。
「子育てにこだわりがある人たちばかりだから、意見の本気のぶつかりあいもある。たとえば鍋の会で“肉を使わない鍋もありだね”と納得しあうのでも、何度も時間をかけて話合いをした。人それぞれ見方が違えば、全く異なる考えが生まれる。でも対話を続けていくうちに、必ずよい方向に行くと体験で学んだ」。子どもの預けあいも大切にした。「お互いに子どもを泊まりで受け入れてお世話する。親子両方の自立のきっかけにもなる。最近の人は妙に責任とか、事故があったらとか怖がるけれど、もっと風通しをよくして心を開いたらいいと思う。自分から開いていくと、いただくものも倍になっていく」

自然な出産へのこだわり

健康な母体で元気な赤ちゃんなら、好きな時に出てきてくれる

3人目の出産で「私ががんばって『産む』わけじゃなくて、健康な母体で元気な赤ちゃんだったら、好きな時に勝手に出てくるだけだ」とデコは気づいたという。初めてのお産は、助産婦の助けを借りて安全のために病院の分娩室で。2人目はラマーズ法の助産院で前回より楽に出産したが、決められた呼吸法に辟易しラマーズ法は『卒業』した。3人目は、自宅分娩に挑戦し、いつもの暮らしの中で安心して気持ちよく出産できたという。思えばこれは「ひと昔前の日本では『当たり前』だったこと」という。
経験を重ねて4人目。夏休みの手狭になる自宅を離れ、デコはバリ島での出産計画を実行する。3人の子どもを連れて、バンガローで出産。ゆったり休養し3ヵ月後には4人の子どもと共に帰国した。さらに5人目は興味のあった水中出産にチャレンジ。汲んできた名水で自宅の浴槽を満たし、自然海塩で海水と同じ塩分濃度にしたお湯に浸かり、「かなり気持ちよく出産」。自然な安産を5回も体験できたのは、長年続けてきた玄米菜食のおかげだと、デコは確信している。他の人にまねして欲しいとは思わないが、自然に適した食事と適度な運動で、母体も赤ちゃんも元気になれることは間違いなく言えるという。

エバレット・ブラウンとの結婚と、第2の人生

東京でのライフスタイルに限界を感じる

写真家のエバレット・ブラウンと出合ったのは、友人のホームパーティーでのことだった。「彼は私を『子どものお母さん』ではなく、『女』というより『一人の人間』として対等に話をしてくれた」。二人はすぐさま互いを深く理解しあい、結婚へとごく自然に進んだ。 フォトジャーナリストとして世界的な賞を得て活躍する夫、そしてワンダーマミーを軸に料理研究家としての活動の場が広がり充実した日々。しかし、それでも東京での暮らしにはすでに限界を感じてもいた。
「安心できる食材は高価で、それを買うために必要以上に無理をして働く。水から空気まで何でもお金で解決するしかない生活には、ほとほと限界を感じていた。せめて、大根、小松菜くらいは自分たちで栽培して費用は種代だけ。そんな暮らしがしたいと思い始めていたのだけれど、あまり具体的ではなかった」。だが、田舎暮らしをしている友人宅を訪問したり、アンテナを張っているうちに、イギリス人夫婦が住んでいた千葉の民家を見ないかと誘われる。「千葉は、ゴルフ場のイメージであまり好きじゃなかったけれど」ドライブのつもりで出かけてみた。

千葉へ移住。ブラウンズフィールドを拓く

竹やぶは田んぼに。納屋はカフェに生まれ変わった

現地にクルマが到着すると、思ったより平坦な土地が見通しよく、空が広い。周囲は竹林と木々に囲まれ、子どもたちを安心して遊ばせることができそうだ。 「ここは千葉のどのあたりかと聞いたら『茂原の近くです』って。茂原といえば父親のお墓がある。お墓参りもしばらくしていなかったから、もう『呼ばれた!』という運命的なものを感じて、ここに移り住もうと決心した。観念したのね」
家の前のやぶは元は田んぼだった。ある冬の日、焚き火をしていると火勢が大きくなり、やぶが焼けて跡形もなくなった。姿を現した田んぼを見て、米作りをしようと一念発起すると不思議なことに応援者が次々と現れ、その年から古代米の収穫に成功した。カフェも、当初から計画があったわけではない。「日曜日になると、本で知って“見学”に来られる方がぽつぽつ現れて。はじめはその度にお相手したのだけれど、『もっとオープンな場にしたらいい!』と気づいて、納屋を改造してカフェにしたの」。仲間と共にこつこつ手づくりで白い漆喰塗りの温かみのある『ライステラス・カフェ』が出来上がった。

自然の流れに身を任せて
安心していればいい

お母さんは太陽の存在だから、いつも笑って欲しい

「できる範囲で無理をしないで、長続きできることが大事。自然の流れに身を任せていれば、どこかに流れ着く、安心していればいい」というデコだが、やはり食事だけは譲れない。「米づくりからはじまって、最近では調味料の材料まで自分の畑で採れるようになった。どんどん地に足がついて、自分の自信になっていく。こうした営みが世の中でもっと普通のことになって欲しい」。ブラウンズフィールドでは、都会の子どもたちが本来の食を体験できる機会をもっと増やそうと考えている。
インタビューは、震災からひと月ほど過ぎたある日曜日に行われた。千葉の春の陽射しはとても明るいのに、透明に吹く風には、悲しみの色が含まれているようだ。「でも、犠牲は大きすぎたけれど、将来のことを考えると世の中が変われるチャンスかも。最低でも原子力をやめていく方向になるかもしれない」。こんな状況だからこそ、とデコは続けた。「先を心配して怖がっていたら、今の瞬間がもったいない。どこで生きるにしても、できるだけ楽しく生活する。おいしく食べる、仲間と過ごす、たくさん笑う。特にお母さんは太陽の存在だから、いつも笑っていて欲しい」。


top