染物作家 石垣昭子

家で糸を紡ぎ、衣は自分たちの手で織るのが当たり前だった。

糸から布作りまで体の中で覚えた幼少時代

幼少時代に経験したことが、いかにその人の人生に影響を与え、道しるべとなるかということを、石垣昭子さんの話を聞いて強く感じる。
昭子さんは子ども時代を竹富島で過ごした。その当時、女性たちは家で糸を紡ぎ、普段着や祭りの衣装を自分たちの手で織るのが当たり前だったそうだ。

昭子さんは小さい頃、よくおばあちゃんの手伝いをした。
朝早く起きて、庭の掃除をする。お昼はおばあちゃんに弁当を届けに畑に行く。おばあちゃんが糸の原料となる芭蕉を倒した日には、一緒に手分けして家へ運んで帰る。水汲み、ランプのホヤ掃除は昭子さんの仕事だった。糸から布作りまで全ておこなうおばあちゃんの作業を、見よう見まねで覚えていった。そうやって染織の仕事を、幼少のうちから、生活の中で自然と体に染み込ませるように体得していったという。

民芸館に通い、沖縄の伝統文化のよさを再発見

「島の子どもは早くから自立するの」と昭子さんは言う。というのも、離島には中学校までしかなく、高校からは違う島の学校に行かざるをえないという事情があるからだ。
昭子さんは那覇高校に進学し、さらに外の世界を見たいという好奇心から、東京の女子美術短期大学に進学した。当時、沖縄は米国統治下にあったので、日本の大学に進学するにはパスポートが必要。それは「留学」といっても過言ではない体験だった。それから20代は大都会、東京で過ごした。

その10年間は、沖縄の染織からは全く離れ、デザイン関係の仕事に携わった。当初は、沖縄に帰るつもりはなかったが、故郷から遠く離れた昭子さんにやがて転機が訪れる。駒場の民芸館が気に入り、足を運ぶごとに沖縄の伝統文化の素晴らしさを再発見する。日本と沖縄の違いに徐々に目を向けるようになり、自分のルーツを見つめ直し、やるべきことが見えてきたと昭子さんは言う。遠くに離れてこそ、かえって近くのものが良く見える。

志村ふくみさんのもとで3年間の修行を積む

1972年、沖縄が本土復帰するとすぐに、昭子さんは長年暮らした東京を後にし、故郷の竹富島に帰った。復帰記念事業の一環として建てられた竹富民芸館で、後継者育成に携わるためである。
「ここには織りしかない」と直感した昭子さんは、幼少時代に覚えていた染織の方法を頼りに、できることから始めていった。

正しい時に正しい人との出会いがある。竹富島に戻り、伝統に忠実に染織の仕事に取り組んでいた昭子さんのもとに、のちに重要無形文化財の保持者に認定される志村ふくみさんが訪れる。自分とはまったく異質で刺激的な存在と出会った昭子さんは、「この人のもとで学びたい」と、染織の道を本気で深めるために、京都に修行に赴くことを決心する。本来は内弟子など一切取らないふくみさんにも、熱心な願いが通じたのか、3年間の貴重な見習いの機会をいただくことになる。この3年間は、昭子さんの後の仕事にとって、かけがえのない宝物のような時間となった。

いかに沖縄が“染織に適した風土”か気づく

志村ふくみ先生からは仕事はもちろんのこと、生き方、考え方など多大な影響を受けることとなった。染織は自然が相手の仕事である。藍染さんを神棚に祀り、ご機嫌を伺うように藍に毎日話しかけ、祈るように仕事をする。藍は沖縄では3日で立つ(発酵する)が、京都の厳しい冬の寒さの中では1週間はかかる。

京都で経験を積むうちに、水、太陽に恵まれ、豊富な植物生態を持つ故郷の沖縄がいかに染織に適した風土かということに気づく。「この恵まれた環境を活かさないではバチが当たる」という思いにかられた昭子さんは、沖縄に戻ろうと思い立つ。そして、現地の自然環境に沿った染織を手がけながら、次世代への染織技能の伝承に力を注ぐことを心に決める。

布作りは大いなる自然の循環の一つ。衣、食、住、全ては命から成り立つ

1980年春、夫の金星さんと共に西表島に紅露(くうる)工房を設立。紅露とは西表の山に自生する植物で、染めると美しく渋い赤茶色になる。昭子さんは西表の豊かな自然を活かした布作りに専念してきた。必要なものを必要な分だけいただく。
布作りでは目に見えない無数のプロセスが働き合い、完成はないという。蚕(かいこ)一匹一匹にしても、それぞれが違う繭(まゆ)になる。美しい絹糸を作るには、健康な蚕を育てることが大切であり、そのためには栄養たっぷりの桑の葉が必須で、桑の木が育つ環境を整えることが重要になる。

布作りは大いなる自然の循環の一つにすぎない。衣、食、住は全て命から成り立つ。限りある命をいただいて一本の糸にするというのが、染織の根本である。「昭子さんに“種をまいた”つもり」とふくみ先生は言った。その時はわからなかったが、沖縄の地を耕し、一から染織のための環境を整えていくうちに、師匠の言葉の意味がわかるようになったという。

お金持ちのためではない。自分たちが気持ちよく暮らすために作る

昭子さんのライフワークは伝統行事の衣装作りである。西表に移住して以来、二十年以上祭りの衣装を作り続けてきた。きっかけは夫の金星さんがミリク神という祭りの重役を務めることになったことだ。「自分の旦那に上等な衣装を着せてあげたい」という想いから、心を込めて衣装作りを始めた。身を包む衣には精神的に響くものがある。

一日中お面をつけて、祭りが無事に終わるまで見守るという大役を見事に務め上げるのも、島の自然が育てた素材から、ていねいに作られた衣の力添えのお陰であるというのも、うなずける話である。「祭りは生活そのもの。お金持ちのために作るのではなく、自分たちが気持ちよく暮らしていくために作るのが、クリエーションの醍醐味ではないかと思う」と昭子さんはしみじみ語る。

家族や地域のためにつくり、伝統を受け継ぐ

自分の家族や地域のためにつくり、伝統を受け継ぎ、次世代に伝えていくという行為にほんとうの意味での豊かさを感じる。それは資本主義とは異なる豊かさであり、お金で買えない価値観の世界が確かに目の前に存在している。
グローバリゼーションの渦の中で、使い捨て文化が膨張し、大量生産の安価なモノが溢れている。モノにココロを奪われてしまっているかのような現代社会には誰もが疑問を感じていることだろう。

このままでよいのかという人々の憂い、反省が追い風となり、人々は伝統的な文化や行動様式にもっと目を向けるようになる。そして、自然を敬い、本来の自然に沿った暮らしに少しずつ回帰していくようになるだろうと昭子さんは言う

夢中で進み、ふりかえると花畑が広がっている

紅露工房ではこれまで、各国からやってきた何人もの研修生が西表での日々を過ごし、自分の道を見つけ巣立っていった。悩み多き青年たちには、いつも「やりたいことをやればいいさ」と昭子さんは背中を押してあげる。自分自身、20代から30代にかけては、東京、ヨーロッパ、アジアなど自分とは異質なものとの出会いの中で感性を磨き、さらに40代からは人生でもっとも精力的に自分の道を究めていった。

「あるいて来た道、ふりむけば花の山」。これが昭子さんの人生のあり方である。自分の直感を信じ、目の前にあることに一所懸命に取り組み、情熱のままに行動する。
無我夢中で突き進んできた道をふとふりかえると花畑がきらきらと広がっている。情報があふれ、選択肢が多いように見える世の中にあっても、余分なものに惑わされず、自分を信じて一心にわが道を歩いていく。それでこそ、命を全うする生き方につながるのかもしれない。

きょうも、昭子さんはマングローブの道を歩き、海に入り、布をさらす。おばあちゃんからいただいた種を、今は子どもたち、若者たちにまき続けている。