「あなたと健康」主宰 東城百合子

「心の根っこ」を見つめるということ

それは「あなたと健康」の定例講演会でのひとこまだった。演台まで進んだ東城百合子は、30代の一人の女性に声をかけた。 「あなた、昨日の話を、ここでもう一度してくれますか」。会場は、何が起きるのかと耳をそばだてている。「料理教室に参加した若い人で、感じるものがあったそうだから、ここで話してもらいたいと思います」 群馬県から上京し3日間の料理教室を受けたばかりという女性は語りだす。「ここに来て新鮮に思えることばかりだったが、昨日の夕食では思わず涙があふれてしまった。

それは、本当に家庭のことを思っていたのではなく、幼稚園の母親たちの間でマクロビオティックが流行していて、それに乗り遅れまいという見栄でやってきた自分に気づいてしまったから」。「材料をどこも捨てずに、全てを生かす料理。その味をかみしめていたら、心の『根っこ』のところを見ないで、逃げている自分に気づいたのです」 何の飾りもない、真情そのままの言葉に会場から拍手がわき起こった。若い世代の心をここまで揺さぶる料理教室を主宰する東城百合子とは、いったいどんな人物なのだろうか。

「一粒の米だって、お天道さまが照ってくれて育つのだよ」

ペンネーム東城百合子こと五来百合子は、大正14(1925)年、岩手県葛巻村に7人兄弟4人目の次女として生まれた。父、勝正一は電気技師だったが、請われて村長を務めたという。宮沢賢治もこよなく愛した岩手県の豊かな大自然は、東城の心のふるさとだ。 生後1年もしない頃に不慮の事故で股関節に障害を負ってしまう。以来、びっこを引くからだである。ハンディを背負った娘の将来を案じて、母親のきよは、百合子が強く生きていけるよう厳しく躾けた。食事の前は、必ず掃除か家事をするのが日課だ。

父は「足に障害があっても、心に障害があってはならぬ。必ず人のために生きる道を歩みなさい」と諭した。学校までの2kmの道のりを、激しい吹雪の日も通った。 食事作法も、「一粒のお米を残しても行儀が悪い。残さないできれいに食べよ。汁物も手に持って周りを汚さないように」と厳しかった。幼い百合子がある日、満腹になったので、残ったご飯を何気なく捨てると、それを見た母は、「一粒の米だって、お天道さまが照ってくれて雨が降って、お百姓さんが汗してやっと育つのだよ」と涙ながらに叱ったという。

アルバイトをしながら、神学校に通う日々

東城の両親は「たとえ財産は残さずとも、子どもへの教育は石にかじりついてでも、やりとおす覚悟」だった。母は東京に出て、住み込みの家政婦の仕事で、家計を助けたこともあったという。教育熱心な両親のもと、女学校を卒業した東城は上京し、日本の栄養学の草分けである佐伯矩博士に師事する。そして栄養学校卒業後、日赤病院に栄養士として1年半ほど勤務するが、許婚(いいなずけ)だった従兄弟の戦死をきっかけに、20歳の東城は聖書に癒しを求め、キリスト教に傾倒する。

教会に通ううちに東城は、「栄養士よりも、人の魂を救う伝道師になりたい」と決心、父母の猛反対を押し切って、千葉にある神学校に入学してしまう。 アルバイトをして生活費、学費づくりに追われると週に数時間しか勉強時間がとれない。理想に燃えて飛び込んだものの、教理中心の教育内容には今ひとつ納得がいかない。心身ともに無理を重ね、疲労困憊の末に故郷に戻ったころには、高熱と咳が続くようになってしまった。医者に行きレントゲンを撮る。診断は、肺全部に回る重度の肺結核であった。当時は結核イコール死を意味していた。

「頭を切り替えて、自然に帰りなさい」

父は土地を売り払い、輸入品で高価な抗生物質ストレプトマイシンを入手してくれた。効き目を信じて、1ヶ月に60本も打った。栄養をとらねばと、食欲もないのに生卵を1日4個も飲み込む。抗生物質で症状は緩和したが、胃腸や肝臓は弱り、血便、血尿、血痰は続く。副作用で耳鳴りがする。心臓は早鐘のように打つ。呼吸困難で横になるしかない。1年半を経過しても、改善の兆しはなかった。「このまま死んでしまうのか」。神に祈り「生きたい」と願ったのは、そんな絶望的な日々のことだった。 願いが通じたのか、兄の友人の医師、渡辺氏が事情を聞き、駆けつけた。

そして、「あなたは栄養学で何を得たのか。頭を切り替えて、自然に帰りなさい」と諭す。自分も腎臓結核を玄米菜食で癒した経験を持つ渡辺医師は、「まず玄米スープからはじめなさい」と指導し、野菜、海藻、ゴマ、野草を食べることが「生命力をつくる」と教えた。 すがる思いで玄米スープを母に作ってもらい、飲むこと2日。食欲が出てきた。3日目には、3食とれるようになった。どくだみ、げんのしょうこ、おおばこなどの薬草を飲むと熱が下がり咳も減っていく。1年も経つと身の回りのことや家事、料理も自分でできるようになった。

「野草は肥料もやらないのに、たくましく育っている」

東城を見守る渡辺医師は「本当に困った時は、野草がいい。タンポポの根をきんぴらにして食べなさい。葉はつくだ煮がいい。“よもぎ”や“のびる”もいい」と教えた。 「野草は肥料もやらないのに、たくましく育っている。あのエネルギーをもらうのです。理屈じゃない、現実にやってみなければわからない。自然が教えるからやってみなさい」 いつもタンポポを摘む丘に登る。絨毯のように一面に咲いているタンポポを見ていると、幼い頃、母のいいつけで草むしりしたことを思い出す。タンポポなどの雑草は根が深く伸び、なかなか取りきれない。
毎日いいつけられ、いい加減にすると叱られる。タンポポが憎たらしくなり足で踏みつけたものだった。そこまで思い出し、東城は悟る。 「私は自分の立場ばかりで病気治しを気にしている。けれどタンポポは親切で、あるがままに生えて、私が死にかけた時、何も文句を言わないで、何の代価も要求しないで、その力を惜しげもなく、私にくれて命になってくれた」

「自然の大きく温かな懐に抱かれて心が暖かくなって、涙がポロポロ出だした。そして、ついにタンポポにしがみついて、ワーワー泣いてしまいました」 (「マイナスもプラスに生きる」あなたと健康社)

栄養学の知識がバランスをもたらした

タンポポの姿から、自然の恵みを悟った東城は、肺の空洞がふさがるまで回復する。そして、本格的に自然食を学ぶしかないと決め、東京の有名な指導者のもとへ1ヶ月間の修業にいく。ひとくちの玄米を、どろどろになるまで200回噛むという厳格な食事、そして掃除、片付けなどのきつい作業が当初は身にこたえたが、休まずに続けているうちに、急に力が出て、らくらく仕事ができるようになる。ここで学んだことは計りしれず、人生の大きな糧となった。いっぽうで、栄養学を学んだ東城の目には、「陰」と「陽」の2分法で全てを理論に当てはめる考え方には、ついていけないものが感じられた。

玄米中心の食事で身体がどんどん軽やかになるが、ある日まったく力が出ない自分に気づく。肌もカサカサになり、調子が悪い。「陰陽の原理」からこの時期、「体が陰性だから、生野菜を食べないように」といわれて従っていた。だが、栄養学の観点からすると、ビタミンCが不足しているはずだ。そこで、試しに生野菜を食べるようにしてみた。すると、体の芯に力が戻り、肌つやもよくなるではないか。 「栄養学をやっておいたことで、教条的にならず、バランスをもって食養を見ることができた」と東城は振り返る。

人生の転機となった大豆ミルク

4年余りの闘病を経て東城は、再び千葉の神学校に戻り、栄養士として仕事に復帰する。そして、学校の食品製造部門で大豆ミルクや製パン、缶詰の技術者を務める五来長利の熱心なプロポーズを受け結婚する。 この時期、米国から国際保健機構(WHO)理事で、国際栄養研究所の所長も務めたハリー・ホワイト・ミラー博士が来日する。博士は大豆ミルクの権威であり、神学校に製造法の指導に来たのだ。ミラー博士は、中国、東南アジアに8つの大病院を何もないところから作り上げるなど、驚異的な功績を残した人物だ。

その行動力と精神性に東城は深く感銘し、ミラー博士を生涯の師と仰ぐようになる。 「必要があれば天が動く。だが大切なのは情熱、行動だ」。お金は志と共についてくると熱を込めて語る博士に、2週間の滞在中ついて歩き、東城は大きな影響を受けた。ミラー博士はまた、「沖縄の食料事情が心配だ。栄養豊富な大豆ミルクで、たくさんの人を救いたい」と語っていた。夫の五来のもとへ、沖縄の会社社長から、「大豆ミルクをつくりたいので協力して欲しい」と要請があったのは、そんな縁からだった。

未知の地、沖縄での活動を決心する

現地から招聘され、ミラー博士も後押ししてくれたが、当時、沖縄はまだ米国の統治下にあり、「東洋の孤児」と呼ばれていた。劣悪な生活環境や事業の見通しを心配して周囲は反対するが、沖縄の人々の健康づくりに役立ちたいと東城は、夫に賛成する。 それは病に倒れ、絶望したとき神に誓った「どこへでも行けといわれれば行きます。生かしてください」という思いが根底にあり、今回の沖縄行きは、その機会なのだという確信があったからだ。

すでに2人の子どもを育てている真っ最中である。しかし、東城は心配する周囲の声をよそに「沖縄の子だって育っているのに、家の子が育たないわけはない。何もないといっても野草も、玄米もあるだろうし、いざとなったらそれでやろうと」思っていた。 昭和35年9月。東城百合子36歳。夫と4歳、1歳8ヶ月の子どもと共に、沖縄行きの船に乗る。内心は背水の陣の覚悟である。 「キリスト教の伝道師になりたい」という20歳の思いは、はからずも大豆ミルク普及、健康運動というミッションに形を変えて現実になりつつあった。

沖縄で健康運動を、ゼロから立ち上げる。

現地教会の人たちの出迎えをうけ、沖縄での生活がはじまった。この地で、東城は意外な発見をする。沖縄には、野草も玄米も、黒砂糖もあり、無漂白の真っ黒な押し麦もあった。アメリカナイズされてしまったが、依然として伝統の食文化も残っており、薬草もごく当たり前に街で売られていたのだ。沖縄にはまだ自然の力が人々の生活の中に生きていることを知り、東城はうれしくなった。 予感どおり大豆ミルクの計画は、当事者が二の足を踏み、動かなかった。しかし、来た以上、独立独歩で、沖縄での活動を成り立たせなくてはならない。

「まず行動だ!」とばかり、東城は地元の有力紙、沖縄タイムズの社屋に乗り込んだ。 新聞社の受付では商品の宣伝と勘違いされ、追い返されそうになるが、東城は「沖縄の人は大事なことを知らないで不健康になっている。本来の伝統食のよさを知らせたい」と粘りにねばって編集長にかけあい、「没にしてもらってもかまわないから」と、その場で原稿を書き始めた。いっきに書き上げた原稿は、「沖縄の食生活」と題した記事となり、2日間にわたり掲載され大きな反響を呼んだ。

行政にかけあい、自然食の給食献立を実現する

新聞記事を読んだ琉球政府の社会教育課主事が、東城のもとを訪れ、講演を依頼。次には、琉球ラジオから「健康の話をして欲しい」と請われ、東城の話は電波に乗って沖縄中に広まった。もうひとつの有力紙である琉球新報にも、五来長利の記事が60回連載される。機関誌の発行、料理教室、講演活動と、現在の「あなたと健康社」の健康運動の基本形ができあがっていった。沖縄の食文化が本来持っているよさ、お金のかからない身近な健康づくりをクローズアップしたことが共感を呼び、健康運動は沖縄全土の主婦、保健婦などの支持を集めていく。

夫と二人三脚の健康運動は勢いづいた。豊見城小学校の完全給食化の際には、東城が献立を考え、調理法を教えた。胚芽やふすまをまぜたパンは、子どもたちの健康づくりに効果をあげた。 しかし、所属するキリスト教会から心外な指示が届いたのは、行政と連携して、ますます沖縄全土の食生活を改善できそうだと手ごたえを得ているまっ最中のことだった。 「教会の関係者が、政治と関わるのは異端である」 ここまで広がった健康運動を中止せよという指示だ。破竹の勢いだった沖縄での運動は、3年間で幕を閉じた。

苦労を重ねながら、雑誌と料理教室を軌道にのせる

「私たちは裸一貫で出かけて行って、また裸で帰った」(「マイナスもプラスに生きる」あなたと健康社)。活動の基盤を沖縄の人々にゆずり、一家は東京に戻った。ゼロからのやり直しだが、沖縄での成功体験は、夫妻に成せばなるという自信と希望を与えていた。 戻った時には、三ヶ月も暮らせるかどうかという状態だったが、月刊「栄養と健康」の発行をはじめる。夫の五来が講演や記事執筆を中心に行い、東城は栄養教室を開いた。様々な人とのつながりのおかげで、やがて健康運動は軌道にのってゆく。教会からは離れたが、聖書に学ぶ師、手島郁郎の会に参加し、精神面で大きな支えを得ることができた。

資金繰りの見通しがつかないときにも、なぜかタイミングよく、切り抜けるだけの資金がその都度入ってくるというエピソードも、東城ならではの体験談だ。 「生活費はすぐ底をつく。普通ならどうしようかと思うのでしょうが、お金はなくても心豊かに安らぎがある。面白いことに、次々に縁がつながって何とかなる」(同書) 苦労しながらも夫婦で力を合わせ、希望に燃える日々にやりがいを感じていたところへ、突然、夫の長利が「別れる」と言い出したのは、雑誌の事業が順調に回り出したころのことだった。

突然の離婚。そして、「あなたと健康」の創刊

あとでわかったことだが、夫の五来は、たまたま入ったレストランで隣に座った女性と意気投合し、その縁で新しい家庭をつくるまで進展してしまったという。 「自然に生きることの大切さを知らされ、これこそが私の使命だと思ってやってきた健康運動でした。その根幹がガラガラと音をたてて崩れていきました」(「お天道さま、ありがとう。」サンマーク出版) 家族が崩れたまま同じ雑誌を続けるのは、読者を裏切ることになる。これまでの出版、料理教室などの活動基盤は別れた夫にゆずり、すべて白紙にして東城は、「あなたと健康」を創刊する。

ペンネームの東城百合子は、このときにつけたものである。家を事務所として使い、借金をして3000部の雑誌を印刷。再生への一歩をなんとか踏み出した。 「人生の2つの大きな転機のひとつ」と東城が語る離婚の苦難の時期。何が東城を支えたのか。心の師と仰いでいたミラー博士、手島郁郎はすでに亡くなっている。心細く悩み迷う中、家のポストに『中心』という雑誌が投函された。発行者は、東城の生涯の師となる常岡一郎である。東城は、たまたま開いた『中心』の記事に感激し涙を流しながら、読み入った。

「根のごとく、枝葉が出る。根が大事。根を育てよ」

常岡一郎は、昭和10年に修養団体「中心会」を創設。参議院議員を12年間務め、戦災孤児や老人の世話をする社会福祉と健康、精神面の活動に邁進した人物だ。その思想は、自らの困難を克服した体験にもとづいており、「根のごとく、枝葉が出る。根が大事。根を育てるのだ」という言葉に表れている。事務所を使って、毎月1回、常岡一郎に講演をしてもらう。4人分の机を片づけると、30人入れるスペースができた。この会は、常岡が亡くなるまで続き、今日の定例会に受け継がれている。 奮闘すること4年。「あなたと健康」が軌道に乗るころ、今度は夫の会社が倒産した。

すでに離婚して何の責任もない東城だが、他人に迷惑をかけ悪縁を残してはいけないと、倒産処理に奔走する。しかし、多忙な日々に追われるうちに、結核が再発してしまう。 入院などしていられる状況ではない。東城は、ある縁で知った「ビワ葉温灸療法」に効用を見出し、徹底的に研究する。仕事をこなしながら、毎朝一人でビワ葉温灸で身体を癒す。そして、一つまたひとつと懸案を片づけるうちに、肺の結核はすっかりきれいになくなってしまった。自然療法の効用もそうだが、心の整理をつけていったことが重要だった東城は語る。自分が出せるものを惜しみなく出しきって、元夫の倒産の始末をつけた。「心は宇宙とつながるエネルギー」という言葉は、この体験からきている。

利益追求の論理が、「怠け者」を大量につくる

高度経済成長と同時に公害や食品添加物が社会問題になる中、「あなたと健康」と料理教室は順調に支持者を増やしていった。料理教室でつねづね、化学調味料の悪影響について警鐘を鳴らす東城に、大手調味料メーカーが工場見学の誘いをしてきたのは、米国FDA(食品医薬品局)がグルタミン酸ソーダの脳神経毒性に関するデータを発表した頃のことだった。 担当者は工場を案内しながら、「ご覧のとおり、材料も糖蜜で安全性に問題はありません」と語るのだが、東城が見学を希望する<茶色い糖蜜を真っ白に精白する工程>は「企業秘密だから」と見せようとはしなかった。

工場見学の後は、10数名の重役たちとの座談会がセットされていた。 「忙しい現代では、手作りは難しいこと」、「われわれの製法は微生物をつかい、自然の材料が元」などと語る企業人との会話は和やかに進んだが、ある発言が、東城を憤然とさせる。 「化学調味料という言葉が悪い。私たちは女性を台所から解放した。この功績は大きいと自負しています」 これを聞いた東城は、思わず「何ですって?」といい立ち上がった。自然の味は、手作りでしかつくれない、台所は家庭の要(かなめ)なのだ。解放とは何を解放したのか。ただ怠け者を大量につくっただけのことではないか。改めて冷静に思いを語りつくした東城は、企業の利益追求の論理と、「自然の力で生きる」ことが相容れないことを改めて認識しながら、会社を後にした。

食べ物への感性と生命への感性はつながっている

長年、料理教室をやってきた東城だが、最近の若い受講者には、驚くことばかりだという。「ししとうと、さやいんげんの違いがわからない」「インスタントの味噌汁しか知らず、だし汁の中で味噌を溶くことも知らない」など例をあげればきりがない。 「大学を出て頭の勉強はたくさんしていても、心が育っていない。『家のことは何をしなくていい、勉強だけしていればいい』と育てられる人間が増えている」。 食卓の変化の根本にあるのは、目先の利益しか見ることのできない我々の意識そのものだ。

昔のお母さんは、学歴はなくても教養があった。子どもをちゃんと抱きかかえて温かく育てる心があった。お母さん同士で助け合いもしていた、と東城は語る。 「現代は何でもお金でそろえることができる時代です。それだけ手抜きはできるでしょう。手抜きは心抜きです。食べ物に対する感性といのちに対する感性はつながっているのです。日本はつくづく女はいても母がいなくなった。私はそう実感してならないのです」(「お天道さま、ありがとう。」)

「もう一度、“お天道様”を取りもどしましょう」

たった一人での創刊から38年、月刊誌「あなたと健康」は全国の数多くの購読会員に支えられ毎月読者からの便りが絶えない。著書は累計90万部を超える「家庭でできる自然療法」をはじめ、20冊を越えるまでになった。今年で85歳になる現在も、東城は毎月の定例会を欠かさず、呼ばれればどこへでも、講演会に出かける。主催者の都合にもよるが、講演のほとんどは手弁当で無料というのが昔からの変わらない東城の考え方だ。 「全ては自分育ちのため」と支部や支局も一切つくらずにやってきた。自然がそうであるように、ワクをつくらず、出入り自由、その人の「どうしてもやりたい」という自主性にまかせて健康運動をしてきたからだ。

いま、東城にとって最も気にかかるのが、若者たちの教育だ。「便利、快適、簡単」を求める風潮の中で、「根のある生活」を訴えるのは困難なことだが、なんとしても「生きる根本」を伝えなくてはならない。最近も近隣の小学生が料理体験に来たが、感性の瑞々しさ、可能性に思わず涙が出たという。大人が道を迷っているだけなのだ。日本人が持っていた“お天道様が見ている”という言葉の意味に、若い世代が気づき、受け継がれる日が待たれている。

出生
1925年10月26日 岩手県葛巻村に生まれる。足に障害を負う
小学校時代 家事の手伝いなど母親の厳しい躾のもとで育つ
女学校時代 聖書の教えに傾倒する
栄養学校時代 東京の佐伯栄養学校 に学ぶ
栄養士から健康運動家への歩み
20代 栄養士としてキリスト教系学校の給食をまかされる
24歳 重度の肺結核と診断されるが、自然療法と出会い、数年かけて治癒する
29歳 五来利長と結婚。二児をもうける
36歳 一家で沖縄に渡る。健康運動を全島に普及
39歳 東京に戻る。健康雑誌と料理教室をはじめる
48歳 「あなたと健康」を創刊する
2009年 「あなたと健康」35周年を迎える
2010年現在 85歳。あなたと健康社主幹として講演会、料理教室で後進の指導にあたる。