母の日に思う。

たまたま通りかかった武道館付近
桜はまだ六分咲きくらいといったところだろうか。

30年前の4月1日、
入りたかった会社の
入社式を迎えての朝だったが、
自宅から小石を蹴り飛ばしながら
歩みを進めた程だった。
いいんだろうか。

九段下から階段を登りきると
はっと声をあげたくなるほどの
桜のアーチに母を感じた。
ためらいが薄らいだ遠い記憶。

忘れもしない1987年冬、
真夜中、父の悲鳴のような声で
目を覚ました。
布団の上で、
必死に半身を起こそうと、
呂律が廻らなくなっている母がそこにいた。

脳出血だった。
救命の先生に
泣きながら
「必ず助けてください」
頭を下げていた。

母は当時まだ48歳、
右半身に麻痺を残したものの、
二ヶ月後、自宅に帰ることができた。

心労をかけたのは私、
倒れた日は本屋に寄って、
大学の卒業試験用の参考書を買ってきてくれていた。
長く続く急坂を
動かなくなった原付バイクに
たくさんの買い物袋をくくりつけ
押しながら、家路に着いたようだった。

卒業できるか心配かけ、
内定が決まった会社も
過酷な労働をするところだと
猛反対していた。

福島で七人弟妹の長女として
生まれた母は
祖父が早くに亡くなったあと、
中学卒業と同時に
図書館で働き始めたという。
母方の親戚には会う度、
「お母さんを大事にしてね」と、
言われ続けた。

何度目かの挑戦の末、
35歳でやっと司法試験に受かった父。
寝床で六法全書を読み聞かせ、
励まし続けた母がいたからこそ、
と父は言う。

とはいえ、半身麻痺後の母の頑張りは
凄まじかった。
動かぬ右手を左手でまな板に
運び、右手を押さえにして、
左手だけで、包丁をさばきだした。

一年経たぬ内に
家事全般を再びこなすようになっていた。

それでも時折、
内職の編み物、綻び直し、
押し入れにしまいこまれた
たくさんの毛糸玉が、
ころんとする度に
せっせと運針するかつての母の姿を
思い出していた。

幼い頃から、いつも
自分の家族、親族を
支えることだけに尽力していた母。
母の時代ならば
ありふれた状況だったとも思う。

早くから認知症を発し、
数年前から寝たきりの母
もの言わぬ母だけれど、

母の息づかいを感じる日は
毎日が私の母の日である。