80万部のロングセラー「家庭でできる自然療法」の著者、東城百合子は、今年で85歳になる。いまも毎月の定例講演会のほか、全国各地に出かける姿は、エネルギーがあり、とても年相応には見えない。日本に「自然療法」の太く力強い流れを生み出した、その半生をたずねてみよう。

「一粒の米だって、お天道さまが照ってくれて育つのだよ」

ペンネーム東城百合子こと五来百合子は、大正14(1925)年、岩手県葛巻村に7人兄弟4人目の次女として生まれた。父、勝正一は電気技師だったが、請われて村長を務めたという。宮沢賢治もこよなく愛した岩手県の豊かな大自然は、東城の心のふるさとだ。

生後1年もしないうちに原因不明のアクシデントで股関節に障害を負ってしまう。以来、びっこを引くからだである。ハンディを背負った娘の将来を案じて、母親のきよは、百合子が強く生きていけるよう厳しく躾けた。食事の前は、必ず掃除か家事をするのが日課だ。

父は「足に障害があっても、心に障害があってはならぬ。必ず人のために生きる道を歩みなさい」と諭した。学校までの2kmの道のりを、吹雪の激しい日も通った。

食事作法も、「一粒のお米を残しても行儀が悪い。残さないできれいに食べよ。汁物も手に持って周りを汚さないように」と厳しかった。幼い百合子がある日、満腹になったので、何気なく残ったご飯を捨てると、それを見た母は、「一粒の米だって、お天道さまが照ってくれて雨が降って、お百姓さんが汗してやっと育つのだよ」と涙ながらに叱ったという。

アルバイトをしながら、神学校に通う日々

東城の両親は「たとえ財産は残さずとも、子どもへの教育は石にかじりついてでも、やりとおす覚悟」だった。母は東京に出て、住み込みの家政婦の仕事で、家計を助けたこともあった。教育熱心な両親のもと、女学校を卒業後、東城は上京し、日本の栄養学の草分けである佐伯矩博士に師事する。そして栄養学校卒業後、日赤病院に栄養士として1年半ほど勤務するが、許婚(いいなずけ)だった従兄弟が戦死したことをきっかけに、20歳の東城は聖書に癒しを求め、キリスト教に傾倒する。

教会に通ううちに東城は、「栄養士よりも、人の魂を救う伝道師になりたい」と決心、父母の猛反対を押し切って、千葉にある神学校に入学してしまう。

アルバイトをしながら、神学校に通う日々。生活費、学費づくりに追われるが、教理中心の学校の教育内容にも今ひとつ納得がいかない。無理がたたり、心身ともに疲労困憊して故郷に戻ったころには、高熱と咳が続くようになってしまった。医者に行きレントゲンを撮ると診断は、なんと肺結核であった。肺全部に回る重度の段階。当時は結核といえば死の病として恐れられていた。

「頭を切り替えて、自然に帰りなさい」

父は土地を売り払い、輸入品で高価だった抗生物質ストレプトマイシンを入手してくれた。効き目を信じて、1ヶ月に60本も打った。栄養をとらねばと、食欲もないのに生卵を無理して一日4個も飲み込む。薬の副作用で耳鳴りがする。心臓は早鐘のように打つ。抗生物質で症状は緩和したが、胃腸や肝臓は弱り、血便、血尿、血痰は続く。さらに呼吸困難、食欲不振は変わらず、1年半を経過しても、それ以上の改善の兆しはなかった。神に祈る思いで「生きたい」と願ったのは、そんな絶望的な日々のことだった。

願いが通じたのか、兄の友人の医師、渡辺氏が事情を聞き、駆けつけた。そして、「あなたは栄養学を勉強して何を得たのか。頭を切り替えて、自然に帰りなさい」と真剣に諭した。自分も病を玄米菜食で癒した経験を持つ渡辺医師は東城に、「まず玄米スープからはじめなさい」と指導し、野菜、海藻、ゴマ、野草を食べることが「生命力をつくる」と教えた。

玄米スープを飲むようになってから2日目で、食欲が湧いた。3日目には、三食とれるようになった。タンポポ、げんのしょうこ、おおばこなどの薬草も飲んだ。一年も経つと身の回りのことや家事、料理も自分でできるようになった。

「野草は肥料もやらないのに、たくましく育っている」

体力が回復した頃、渡辺医師は「本当に困った時は、野草がいい。タンポポの根をきんぴらにして食べなさい。葉はつくだ煮がいい。ヨモギやノビルもいい」と東城に教えた。

「野草は肥料もやらないのに、たくましく育っている。あのエネルギーをもらいなさい。理屈じゃない。現実にやってみなければわからない、自然が教えるからやってみなさい」

ある日東城は、いつもタンポポを摘んでいる丘に登る。絨毯のように一面に咲き誇るタンポポを見るうちに、幼い頃のことを思い出す。母のいいつけで草むしりするが、タンポポもヨモギも根が深く、なかなか取りきれない。毎日いいつけられるのが嫌で、タンポポが憎たらしくなり踏みつけたものだった。

「私は自分の立場ばかりで病気治しを気にしている。けれどタンポポは親切で、あるがままに生えて私が死にかけた時、何も文句を言わないで、何の代価も要求しないで、その力を惜しげもなく、私にくれて、命になってくれた」

東城は、自然が惜しみなく与えてくれる力の大きさを改めて悟る。

「自然の大きく温かな懐に抱かれて心が暖かくなって、涙がポロポロ出だした。そして、ついにタンポポにしがみついて、わあわあ泣いてしまいました」(「マイナスもプラスに生きる」あなたと健康社))

栄養学の知識がバランスをもたらした

本格的に食養を学びたいと、東京の著名な指導者の門を東城はたたく。厳格な食事と、掃除、片付けなどのきつい作業をさせられるが、休まずにつづけているうちに、急に力が出て、らくらく仕事ができるようになった。そこでの1ヶ月間の修業は、人生の大きな糧になっているという。いっぽうで、栄養学を学んだ東城の目には、「陰」と「陽」の2分法で全てを説明しようとする理論中心の考え方には違和感を持つところもあった。

玄米中心で身体はどんどん軽やかに動くようになったが、ある日まったく力が出ないようになってしまった。肌もカサカサになり、調子が悪い。実はこの時期、東城は「あなたは体が陰性になっているから、生野菜を食べないように」といわれていたのだが、それでは栄養学の観点からすると、ビタミンCが不足してしまう。そこで、試しに生野菜を食べるようにしてみた。すると、体の芯に力が戻り、肌つやもよくなるではないか。

東城は、「栄養学をやっておいたことで、教条的にならず、バランスをもって食養を見ることができた」と振り返る。

夫のもとに舞い込んだ、沖縄行きの話

肺の穴もふさがり回復した東城は、再び千葉の神学校に戻り、黒パンや豆乳などの食品を主に担当する栄養士として復帰。同時に栄養学を学生に教える。また、その頃、同じ学校で仕事をする五来長利と結婚。学校の院長にも「栄養学を学んだあなたにしかできない仕事をしなさい」と熱心にすすめをうけ、給食を担当するようになっていた。

その頃、米国から、国際保健機構の理事で、国際栄養研究所の所長を務めていたハリー・ホワイト・ミラー博士が来日する。ミラー博士は大豆ミルクの権威であり、製造法の指導に来たのだ。わずか2週間の滞在だったが、ミラー博士の人格と哲学に触れた東城は、人生の師として生涯ミラー博士を仰ぎつづける。

結婚後子どもも生まれ、充実した日々を送るが、夫の五来長利に、沖縄の食品会社から、「大豆ミルクをつくりたいので協力して欲しい」と連絡がはいったのは、そうした時期だった。

未知の地、沖縄での活動を決心する

当時、沖縄はまだ米国の統治下にあり、「東洋の孤児」と呼ばれていた。劣悪な生活環境や事業の見通しを心配して周囲は反対したが、「沖縄の人々の健康が心配だ」と師のミラー博士に聞かされていた東城は、夫に賛成する。

すでに2人の子どもを育てている真っ最中である。しかし、東城は心配する周囲の声をよそに「沖縄の子だって育っているのに、家の子が育たないわけはない。何もないといっても野草も、玄米もあるだろうし、いざとなったらそれでやろうと」思っていた。

東城はなぜ沖縄行きに賛成したのか。それは病に倒れ、絶望したとき神に誓った「どこへでも行けといわれれば行きます。生かしてください」という思いが気持ちの底にはあり、今回の沖縄の話こそ、その機会なのだという確信があるからだ。

「キリスト教の伝道師になりたい」という、20歳の思いは、はからずも大豆ミルク製造というミッションに形を変えて現実になりつつあった。