春になると思い出す
詩がある。
かの井伏鱒二が妙訳をつけたことで知られている、唐代の詩人、于武陵(うぶりょう)が詠った、「勧酒」という五言絶句。
勧酒
(于武陵)
勧君金屈巵
満酌不須辞
花発多風雨
人生足別離
(書き下し)
君に勧む
金屈卮(きんつくし)
満酌
辞するをもちいず
花ひらけば
風雨おおし
人生
別離たる
さても人生は出会いと別れ。
井伏鱒二が訳した世界観は、別れの時の刹那の感情を凝縮したような味わいがある。
このさかずきを受けてくれ
どうぞなみなみつがしておくれ
はなにあらしのたとへもあるぞ
「さよなら」だけが人生だ
(「厄除け詩集」井伏鱒二)
たとえば、
気のおけない仲間との再会の夜、
大事な人との最期の日、
故郷を離れて旅立つ朝、
春の光と桜の花に見送られて、どのくらいの人たちが出会ったり別れたりを繰り返してきただろうか。
そしてまた別れの寂しさから出会いの歓びに胸をふるわせ、忘れることで、重ねることで、思い出すことで、生きていけるのだろう。
人の身体とは不思議なもので、緊張や不安に支配されている時はかたく強ばり、安心し開放されているときはやわらかく緩む。
普段どれほど身体をこわばらせながら
デスクに向かって作業をしている人の
多いことか。
現代の病は、季節をゆっくりと楽しむことで解消されはしないだろうか。
春になると、木々の芽は開き、花開き、鳥がうたう。
寒さを乗り越えてまた巡ってきた美しいこの季節を感じ、心を楽しませる。
37歳の井伏鱒二が勧酒の訳を発表したのは、昭和10年(1935)のこと。
同じ年齢の今、これからひらいていく世界が、人生を慈しむような出会いと別れに満たされていくことを心から祈り、進むのみ。
今、そしてこの先、また幾たびも春を迎えることができる歓びに感謝を。